隣のシミズさん。向いのコタロー。

昔住んでいた所は一つの土地に、コの字の内側向きに古い小さな借家が建ち並び、それぞれの玄関に至るまでの砂利道を囲んで袋小路にしていた。太い道路から外れて、その砂利道に入る境目には、両端には立方体の石柱が立っていた。片方は崩れかけていた。よくその上によじ登って狛犬ごっこと言って遊んでいた。

窮屈に立ち並んだ借家の庭はどこからが我が家ので、どこからが人様のものなのか判断しにくい小さなものだった。幼い私達には十分空想で遊べる広さは有していたから、我が物顔で土の上に居座っていた。

神経質な父と無神経な母は何故か共通してマナーや礼儀に厳しい。それ故かご近所さんと鉢合わせた時にはきちんと挨拶していた。でも恥ずかしがりやだったから、向こうが挨拶するまで少し間を開けたりして、出合頭に挨拶はできない子供だった。

お向かいの玄関は丁度我が家の玄関に対して平行で垂直な位置にあったから、夏場などはお向いの開け放たれた玄関から中が丸見えで、特にダックスフントのコタローの異常な鳴き声はいつもより大きく、必死そうに聞こえた。飼い主のおばさんはいつもニコリと挨拶をしてくれる以外関りはなかったのだけれど、普段からコタローの声を聴いていると、きっと厳しくて恐い人なのだろうと勝手に思い込んでいた。

何よりもコタローが吠えると同時に聞えてくるコタロー!コタロー!という飼い主の怒鳴り声が、犬の名前を知って、覚えるまでにまでに至った経緯だからかもしれない。

お隣のシミズさんは白髪頭で目が開いているのか閉じているのかわからない様な老人だ。殆ど見かけた事がない。ただ、両親の知り合いである我が家の大家とシミズさんは古い仲らしく、大家から又聞きしたシミズさんの話を両親がよく話していたから、傍にいる子供たちには大人のする話として印象が深い。数少ない目撃でも記憶している伝聞と結びついてより印象強くなる。

我が家の庭は丁度シミズさん宅の勝手口と向かい合っている。シミズさんがその勝手口を使っている所は見た事がなかった。

ある日一人で庭で遊んでいると、突然勝手口が開いてシミズさんが出てきた。私は驚いてしまったがすぐに慣れた。そもそも今まで開かなかった所が開いて、隣人なのになかなか姿を見ない人が出てきた状況に驚きよりも不思議な気分が勝っていた。シミズさんのたるんだ目元は開いているのか開いていないのかわからない。だからこんなに傍にいる私に気付いているのかいないのかも判断できない。でもシミズさんの動きからして、眼中に私がいないのは確かだった。すぐ傍なのに気付いていないから、挨拶をして気付かせようとした。でもシミズさんはコンニチハ、といった私を無視してどこかへ行ってしまった。私はますます不思議な気持ちになって、家の中へ戻った。

でも夕方になるにつれ、自分は意地悪されたのではないだろうかと思うようになって、その日は少し傷ついていた。晩にその出来事を母親に話したら、「シミズさんはお年寄りだから、耳が遠くて聞えなかったのじゃないか。」と言われたが、私の意地悪されたのではないかという疑いは、物心が付いた後もモヤモヤと残り続けている。